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植村祐己子(うえむらゆきこ)

フランス地方都市で、ピアノとフォルマシオン・ミュジカルを教えつつ日本の楽器の先生方にフランスの総合基礎音楽教育であるフォルマシオン・ミュジカルを伝えています

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My Story(私の足跡)

ピアノを始めたきっかけ

幼稚園の教室で先生が弾いているピアノを聴いたのが、私のピアノとの出会いでした。クラスの友達の家にも同じようなピアノがあり、それを鳴らして楽しかったという記憶があります。その友達はおもちゃのピアノと本物のピアノの音の違いがわからなかったのですが、私にはわかりました。どうしてもこっちがいいと思っていました。

そして、待ちに待った最初のピアノのレッスンで、楽譜の読み方を習いました。ドレミファソの鍵盤の位置と共に習いましたが、その時から音の高さをきちんと認識、記憶していました。つまり、先天的な絶対音感があったということになります。その頃は、ピアノを習う人みんながこういう音感を持っていると信じ切っていました。持ち前の器用さで学習は順調に進みました。

 

最初の先生の下での小事件 後にフォルマシオンに惹かれる引き金となるもの

最初のピアノの先生は、ソルフェージュをきちんと教えていたし簡単な和音づけも教わりました。しかし、先生の教え方が私の知識欲、学習欲について行かれないという事件がおきました。

ソナチネアルバムを始めた時のこと、第一楽章のソナタ形式の再現部が来た時「あ、ここが区切りだね」と言ったら楽章の最後をさして「区切りはここ」と、あんた馬鹿じゃないの? といった口調で怒られました。その時、私はソナチネの1楽章の中での区切りを自分で発見していたのですが、先生の頭にはソナチネという楽曲の中での区切りしか頭になかったのです。

その後、ヘンデルの「主題と変奏」を学習した時、最初の主題の四分音符の単純なメロディーが弾けなくて「あなたは四分音符すらきちんと弾けないから」とテクニック不足と認定されて、自分の実力からしたら相当に易しすぎるエチュードを与えられました。不本意すぎて、その練習もつまらなく、ピアノを練習しない日が続きました。後から考えれば、その頃、バッハを全くやらせてもらえなかった(恐らく先生の頭にはバッハをやるということがなかった)ので、バロックの音楽の歌い方を経験してなくて、弾けないのは「歌い方を知らない」からだったのですが。

 

新しい先生と新しい音楽の世界

その後、先生はご主人の転勤で遠くに引っ越して行きました。「ちょっと遠いけどいい先生だから」と紹介された先生(電車とバスを乗り継いで片道1時間半かかったので、小学生の習い事としてはかなり遠い先生でした)は、私をまずバッハと出会わせてくれ、バルトークとも親しむこととなりました。楽典を一通りまとめてレッスンして下さるなど、音楽の知識面でも充実していきました。

私の持っていた先天的絶対音感をおもちゃ代わりにされたのには閉口しましたが、それ以外、特に大きな不満もなく過ごしていました。しかし、学校の勉強との両立に悩むようになり、そして手が小さいという私の欠陥もあって「そろそろピアノはやめようかな」と思う日々でした。

 

演奏活動をしている先生との出会い

そんなある日、発表会前に一度だけレッスンをしていただいた、ウィーン留学経験のある演奏活動をしている北川暁子先生にずっと定期的にレッスンを受けないか? という話をいただきました。ピアノはやめようかなと思っていたところだったのですが、そういう先生の弟子になれるということは、それだけ私がいい音楽を演奏しているからだと気持ちを切り替え、ピアノを続けることにしました。先生のレッスンは、私の持ち味を生かした「自分の演奏をしなさい」というレッスンでした。

音楽大学のピアノ科は無理かな、と思いつつも、憧れの気持ちを抑えることができず、北川先生が当時非常勤で教えていた武蔵野音楽大学ピアノ科に進学しました。

 

大学進学後の暗い日々

ところが、先生の持ち枠では私を学生として迎えることができず、結果的には2年間他の先生の下で修行をすることになりました。

その先生は、ご自身の演奏のコピーをさせたいのではないかと思うようなレッスンをなさってて、私の演奏を「あなた、ここはこんな風(私の演奏とは少し違う)だからこういう風にして」というのを私は先生の2つの演奏の差を読み取って自分なりの表現でやったのを、先生はその通りに弾けないとOKを出さず、演奏はどんどん縮こまり、今まで小さい手で弾いていた割りに問題を起こさずにいた手を傷め、どんどん弾けなくなり…。

そういう私を見るに見かねた大学の先生が「北川先生の下に戻りなさい」と言ってくださったのをきっかけに、北川先生のクラスで残りの学生生活を送ることとなりました。

 

ソルフェージュ大好き

子供の頃からソルフェージュは大好きでした。初見視奏が苦手だった(今思えば、手が小さいため鍵盤の所定の場所に手を届かせるのに人一倍の努力が必要だったため、見てパッと弾くのに向かなかった)とはいえ、受験の時も、大学の時も楽しんでレッスン、授業を受けていました。当時読んだソルフェージュについての本には「フランスでは今、フォルマシオン・ミュジカルと呼ばれている」とありましたが、ソルフェージュとの違いは説明されておらず、私もそれ以上追求せずに過ごしていました。
 

卒業後の進路に悩む

卒業後はどうしようか。音楽教室に就職してもいいけれどこのまま埋もれたくない、でもピアニストとして活動するには手が小さすぎる、と悩んだ結果、演奏家の視点をもった音楽学者になるのはどうか? と北川先生に言われました。幸い両親の経済的な協力はまだ続けてもらえそうだったので、一念発起して受験をし東京藝術大学の楽理科に籍を置くことにしました。
楽理科で音楽史を中心に、幅広く音楽を見つめる機会をたくさん与えてもらいましたが、研究者としての洞察力にかけていたこともあり、さらには身体を壊し、最終的には大学院を経て研究者になるという道を断念せざるを得なくなりました。

 

フランスに渡る

そうだ、フランスに行ってみよう。その頃、フランスバロック音楽に惹かれていたこともあり、その本場でるフランスに行ってフランス語を学べば何か道が開けるかもしれないと思い渡仏。パリから一応日帰り圏内にある地方都市の語学学校を経て、その地の総合大学の音楽学のコースででMaitriseの課程(現在の修士課程1年目)を終了しました。
私はMaitise課程のみの在籍でしたが、大学の1年目からやった場合、コンセルヴァトワールでフォルマシオン・ミュジカルの授業が必修だったそうです。が、この頃もまだフォルマシオン・ミュジカルとソルフェージュの違いをよく認識していなくて「音楽学をやるからにはソルフェージュくらいできないとね」としか思っていませんでした。

コンセルヴァトワールのエヴェイユ・ミュジカル(音楽の目覚め)のクラス

 

その後、この地で暮らす覚悟を決めて結婚し、子供が生まれました。自分の子供に音楽をやらせることに迷いはなく、それでも自分が専門にしたピアノ以外の楽器をさせたい、そのためにはコンセルヴァトワールの音楽コースに入れるのが手っ取り早いという情報だけで、子供がコンセルヴァトワールに受け入れてもらえる年齢を待ちました。
長男が5歳(幼稚園年長)になった時に、町にある地域圏コンセルヴァトワール(地方コンセルヴァトワールの中では一番規模が大きいもの。大きな地方都市にある)のエヴェイユ・ミュジカルのクラスに行かせました。このクラスでは楽譜を読むなどお勉強的な要素はなく、ただひたすら歌ったりお遊戯したりでした。年に数回ある授業参観で見たのは、楽しむばかりではない、遊びを通してその後の音楽の学びにつながる大切なことを学び、そして「音への注意力」を育てる授業内容でした。そして、翌年の小学校1年生向けの音楽導入のクラスでも似たような感じでした。
2歳年下の次男は4歳(年中組)からエヴェイユ・ミュジカルのクラスを2年やりました。年中組のエヴェイユのクラスは、年長組よりも年齢的に小さい子に合わせてるなとは思いましたが、同じ目的ということはわかりました。

コンセルヴァトワールの本コースへ フォルマシオン・ミュジカルの始まり

長男が7歳になり、こちらの学校で小学校2年に当たる学年になりました。いよいよコンセルヴァトワールの正規の音楽コースに登録です。初めの数ヶ月はフォルマシオン・ミュジカルの授業と合唱の授業だけ、その後、本人が選んだチェロのレッスンが始まりました。授業を見学させてもらうチャンスはありませんでしたが、帰り道に同じ学校で同じフォルマシオンのクラスの子と歌を歌っていたり、楽譜の読み方、書き方を少しずつ教わっていて、どうやら身体的な活動もしているようでした。我々が子供時代に学んだソルフェージュとは違ったアプローチで、音楽の読み書きを学習しているなということは伝わってきました。2年目のクラスでは、コンサートに参加するなどいい経験を積ませていただきました。歌った曲の中には五拍子のものがあるなど、音楽的に多彩な曲が多かったです。
次男も小学校2年から正規コースに在籍し、違う先生の下でアプローチが少し違うけれど本質が同じフォルマシオン・ミュジカルの授業を受けつつ、ヴァイオリンをやっています。

 

2020年3月のロックダウン

2020年3月、コロナウィルスの到来でロックダウンとなり、全ての学校が閉鎖されあらゆる活動が制限されました。
コンセルヴァトワールも全ての授業が遠隔になり、この町のコンセルヴァトワールは「楽器のレッスンは少なくとも週に1回は電話でコンタクトを取るなどで継続します。フォルマシオン・ミュジカルは担当教師が課題を定期的に送ります」ということになりました

つまり、家庭でフォルマシオン・ミュジカル学習の面倒を見なくてはならなくなったのです。
私にとっては、子供たちのフォルマシオン・ミュジカルの授業の内容をさらに深く知るいい機会となりました。譜読みの学び方、聴音の課題、その他理論や音楽史などを総合的に取り入れている教育方法を間近に触れることとなり、これは幅広い視野で音楽を見つめられる人を育てる教育だと確信し、自分のピアノレッスンにも取り入れたいと強く思いました。
当時教えていた日仏家庭のお子さん(日本語で習い事をさせたいという希望でした)は、お母様が「うちでは日本語とフランス語を分けていますので、フランス語で教えられるのはちょっと」と言われていました。そこで日本語で何かいい教材はないかと探したものの、教えるための指針になる教材はいくつかあるものの、初心者の頃から系統だてて利用できる教材は見当たらず。フォルマシオン・ミュジカルについての説明も半端なものがほとんどでした。

そこで私は思いました。この素晴らしい音楽教育法を日本の音楽教育に役立てて欲しいと。そのためには私が日本に伝えていく必要があるなと感じました。そして今、フランスの教材の内容を検討しつつ、日本の人たちに伝えています。

今、なぜフォルマシオン・ミュジカルなのか

子供の頃の小事件は、先生がフォルマシオン・ミュジカルの精神を知っていれば防げたと感じています。フォルマシオン・ミュジカルでは早い時期から音楽の理論的なこと、音楽の形式についてもやります。子供のうちから楽曲を見つめる方法が違うのです。ピアノに限らず、音楽を音楽として親しむ手段を教えています。
先ほどもお話した通り私は手が小さいです。大きさは10歳児並。オクターヴがやっと届く大きさです。それでもピアノという楽器に惹かれ、クラシック音楽に惹かれてここまでやってきました。ピアノの実力には限界がありますが、音楽学を並行していたことで、ピアニストとは違った視点で音楽を見つめることができます。さらには音楽学だけの人よりは、演奏家としての視点を持っています。

現在の私の使命は、日本で音楽を学ぶ様々な人たちに自分の演奏する楽器に限らず音楽そのものを楽しむための幅広い経験をしてもらう、そしてより深掘りした音楽演奏、音楽鑑賞によって心豊かな人生を送っていただけるためのレッスンを行うことです。そういったレッスンに興味のある先生方にも私の得た知識をお届けしたいと考えています。

そのためのフォルマシオン・ミュジカルのレッスンです。

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